1994年 ヨガと出会う

運命のバリ島旅行
 1994年の初夏、バリ島へ出かけたことが、私がヨガと出会うきっかけとなった。
 8年間勤めた会社を辞め、退職金と時間があった私は、インドネシアに行くことにした。なぜ、インドネシアかというと、友人がバリ島へのツアーをちょうど企画しており、それじゃあバリ島行こう、8日間は短いからツアーの後も少し居残ろう、けれどもよその国に行くのもめんどうくさいのでインドネシアにずーっといよう、という結構安易な理由だった。というわけで、2ヶ月間インドネシアにいた。バリ島5週間、ジャワ島2週間、ロンボク島1週間の、日本人の平均にしてみれば長~い期間、ヨーロッパのバックパッカ-にしてみれば、まあ普通のスケジュールであった。
 そのツアーをオーガナイズしたのが、企画者の友人で、バリ島でツアーコーディネイトをしているアメリカ人とイギリス人のカップルだった。その女性(ジーンという名前)がヨガのインストラクターでもあり、ツアー中、朝の30分くらいヨガの時間があった。それが私にとって初めてのヨガ体験となった。その時間はおまけみたいなものだっけけれども、前から少しヨガに興味があった私にとっては、へえ~という感じだった。ちょっと気持ちよかった。けれども、その時はそれくらいを感じただけだった。
 ある時ジーンと話していたら、ヨガの話になり、日本にもいい先生がたくさんいるから、ヨガをしたらいいのにという話になった。そして、6月にアメリカからヨガのツアーを呼ぶの。その先生もとっても素晴らしい先生よというような話をした。
 ツアーは終わり、私はバリ島からジャワ島、ロンボク島へと一人で周り、またバリ島へ戻ってきた。滞在先はジーン達と一緒にツアーのコーディネイトをしているバリ人が経営している宿だった。宿と言っても、自宅の敷地にある4部屋を部屋として提供しているので、ホテルではない。そこで、残り少なくなった滞在を過ごしているときに、前にジーンが言っていたアメリカからのヨガツアーの一団がやってきた。ヨガツアーというものが存在するということ自体に驚いた。アメリカやヨーロッパではこういう企画はたくさんあるのだ。
 その日は、そのツアー参加者のバリ島の家庭料理のディナーを楽しみ、バリの子どもの踊りをみるイベントで、私が滞在している宿へわらわらとアメリカ人がやってきたのである。私も隅っこで子どもの踊りをみながら、誰がジーンが話していた先生かなあと探っていた。さわやかなお兄さんがいるなあと見ていたら、その人が先生だった。彼はチャイニーズアメリカンだった。
 そのツアーには日本から参加している人もいた。そうしたら、なんと、このバリ島の後で、その先生のワークショップが東京でもあるという。それも、私が帰国する次の日からだと言うではないか!(だったか次の次の日だったか、本当はよく覚えていない)なんというタイミング!そんなにいいんだったら、出てみたいなあと切に思った。そのときの私は、インドネシアに1ヶ月半くらい滞在し、1人旅で何となく度胸もつき、積極的な精神状態になっていたんだと今は思う。それで、彼に言ったら、ぜひおいでと言うし(とってもオープンな人なのだ)、もうすっかり参加する気分になり、一人で盛り上がっていた。
  
 そして、私は日本に帰国した。
初ワークショップに参加
 日本に帰国してから、東京のワークショップがあるスタジオに連絡し、参加できることになった。私はバリ島で1週間程、朝の30分ヨガをしたことがあっただけなので、全くと言ってよい初心者だった。ポーズの形もわからず、名前も知らず。足をどれくらい広げたらいいかもわからなかった。参加者のほとんどは、もう何年もヨガをしていたり、先生をしている人が多かった。そんな中で、右も左もわからなかったにもかかわらず、おもしろかったんだな、これが。そういう状況を楽しめたのは、インドネシアから帰ってきた直後であり、周りのことはあまり気にならない精神状態になっていたことも大きいかもしれない。それにしても、自分のからだと向き合うことが楽しかった。そのような経験は初めてで、「自分のからだを観察して」という指示は、あまりにも私には新鮮だった。思えば、会社を辞めた理由の一つが、このままだと自分のからだがもうだめになりそうだと感じたことにあったのだ。
 私はクラスについていけはしなかったものの、何だか面白くて、本当は2、3日で新潟へ帰る予定にしていたにもかかわらず、アドバンスのクラス以外、全てのクラスに参加してしまっていた。特にからだをしっかり動かした後のシャバーアサナ(死体のポーズ)の感触がたまらなく印象的だった。しかし、私のからだは、最終日にはビールのグラスを持つ手が震えるくらい筋肉痛になってしまっていた。
 もちろん、その先生(名前をRodney Yee:ロドニー・イーという)も教え方がうまく、魅力的だったのだ。彼はとってもオープンで、性格もよかった。私は、新潟でこれからどうやって練習したらいいかと尋ねたら、自分のビデオがあるから、ビデオを見て練習するといいよ、後から送るからと言ってくれた。けれどもそのビデオはなかなか送られてこなくて、スタジオの人がアメリカへ行ったときに、持ってきてくれた。彼は忘れることが得意であるというのは、後から知った。
 
 このときが私が(ちゃんと)ヨガに出会った時で、それから数年はロドニーファンとして私のミーハーな部分がヨガの練習を続けさせる大きな動機の一つになった。もう一つ、私は膝の靭帯を学生のときに痛め、手術を受けていたために、飛んだり跳ねたりする激しい運動は控えていたが、筋肉は鍛える必要があった。ヨガはそのためにもいいような気がしたのだ。
一人で練習する日々
 ロドニーのスタイルは日本ではあまり知られていない「アイアンガーヨガ」がベースになっている。その「アイアンガーヨガ」は、アメリカやヨーロッパではずいぶんメジャーなヨガの一つである。彼は、アイアンガ-スタイルをベースに自分なりのものをプラスして教えている。
 アメリカ人の先生は、彼に限らずそのようなパターンが多い。伝統にしばられず、自分がいいと思うものは取り込んでいくみたいな。日本人やヨーロッパ人は伝統の重さとか、そういうものが暮らしの中に自然に溶け込んでいて、否応無しに浸っているような気がするが、アメリカは伝統がない分、自由になれる。いいとか悪いとかの話でなく、歴史的なバックグランドが違うことにかなり起因しているように感じる。
 少し話がそれたけれども、私はそういうわけで主にアイアンガースタイルベースのヨガをやってきた。実際、新潟でヨガのクラスを少し覗いたりもしたけれど、少し物足りなく感じて、結局家で一人で練習していた。基本はワークショップで習ったことのリピートで、本を見て新しいポーズに挑戦するということはあまりしなかったので、最初の頃はレパートリー(?)は少なかった。東京のヨガスタジオでは、当時年に数回、外国人の先生のワークショップがあったので、そういうときは参加した。ロドニー以外の先生のクラスもよかった。ワークショップに参加する前と参加した後は、熱心に練習した。さぼるときも、もちろん多かった。なにぶん、家でやっているだけだから、いくらでもさぼれたのだ。
 1999年まではやったりやらなかったりの繰り返しだった。けれども止めることは無く、気がついたら今年の夏で8年になる。(注:2005年現在は12年になります。もうそんなに経ったんだ・・・)

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