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2001年 新潟でヨガクラスを開く

アメリカに入れない!
 2000年12月に日本に一時帰国した。その前後の話はいろいろあるので、ベイエリア通信バックナンバーを参照してほしい。ベイエリア通信とは、私がベイエリアにいた期間、友人宛てにアメリカから送っていた私設メルマガである。簡単に言えば、2001年1月、私はアメリカに再入国できず、また日本に戻るはめになった。その時期はずいぶん落ち込んでいたものの、春になるとともに気分も少しずつ回復し、6月にはアメリカにも入ることができ、AS2000の卒業式には参加することができ、クラスメイトとの再会を果たせた。
半年ぶりのアメリカで
 アメリカに入れなかった約半年の間、自宅でたまにアメリカ映画とか見ていたが、それほど英語を聴いたり話したりしていたわけではない。むしろ、単語的には忘れてしまった割合の方が高いと思う。ところが驚いたことに、6月に再入国したときに、2人のアメリカ人の友人から、前より私の英語がわかりやすくなったと言われた。私自身、2000年よりも周りの会話が聴くことができるようになった気がした。
 不思議なことだったけれども、私の在り様が変化していたことが原因だと思う。2000年は前にも書いていたように、その時は自分自身がいっぱいいっぱいで、周りが得ている情報は全てわかりたいという思いが強く、自分の中に全く余裕が無かった。私が自分の中の最前線まで来ていて、そこに周りの英語が入り込んでくるスペースがないようなイメージかな。2001年の滞在時には、自分自身ビジター気分が半分あり、少しひいていることができた。多少のあきらめを受け入れたことで、それがスペースをつくり、前よりも英語が入りやすくなった。先生にはポーズも前と変化したと言われた。アメリカでの自分に必要であったものが、皮肉にもアメリカに入れなかったことで示された。人生こんなものである。
 よくポーズをしているときに、体の中にスペースをつくるようにという指示を受けることがあった。けれども、それはからだだけでなく、自分の心の中にも必要なことだ。そのスペースがあることで、自分を第三者の眼で見ることもでき、新しいものを受け入れることがしやすくなるように思う。先入観にとらわれずに観察し、判断をしないで、ありのまま受け入れるプラクティスも、ヨガのプラクティスなのだ。、私はその点についても、今もまだ修行中である。
とうとうクラスを開く
 アメリカに入れなかった春の間、大和町と新潟市で少しヨガを教え始めた。その時は、まだその先どうなるかわからなかったので、一時的なクラスだった。それでも、新しい出会いもあり、教えることは、ずいぶん私の生活の励みになった。その後、7月から新潟市でのバイトが決まり、新潟市での住居を決めてから、前述のようにアメリカへ3週間行き、自分の荷物も全部引き上げてきた。帰国して、すぐに実家のある長岡市から新潟市に舞い戻った。その時は自宅でヨガクラスを始めようと考えていた。そんなわけで9月から自宅でクラスを開いている。ご興味のある方は、ぜひ一度体験しにいらしてください。
(注:2005年11月現在、自宅のクラスはもうありません。現在のクラスはクラスの案内をご覧ください)

2000年 アメリカでヨガを習う

どうしてアメリカへ行ったのか?
  「ヨガならインドでしょう?どうしてアメリカなの?」とアメリカから帰国した後で、多くの友人にこう聞かれた。それは、たまたま私の縁がそのときはアメリカにあったとしか言いようが無い。1994年の日記に書いたように、私が最初に習った先生はアメリカ人で、その後もアメリカ人が多かった。ハワイのリトリートに参加すれば、アメリカ人の知り合いも増える。さらに、そのワークショップはロドニーともう1人
Mary Paffordという先生も加わり、またアメリカ在住の先生と知り合うことになる。ハワイのワークショップには1996年と1998年の2回参加したので、メアリーとも親しくなった。そんなわけで、アメリカでの知り合いが少しずつ増えていく。
 そして、人から教えてほしいと言われることが増えてきた。けれども、自分流にやってきているので、教えることはどうにも自信が無い。年に数回週末のワークショップをとっているだけで、先生にずーっとついているわけでもなかったからだ。集中的にやってみたいとは、1998年くらいから思っていた気がする。ロドニーのスタジオでティーチャ-ズトレーニングのようなものをやっていることは知っていたものの、英語も自信ないし(ハワイで大変だった)、やはりアメリカへ一年間も行くのは無理だと思っていた。
  
 そう思っているうちに、2000年から始まる彼のスタジオでのアドヴァンストレーニング(ティーチャ-ズトレーニング)のプログラムが多少変わることをウエッブサイトで知った。期間が長くなり、メインの先生が彼1人から4人に変わった。あきらめかけていた気持ちが少しムクムクしてきてしまった。1999年の東京でのロドニーのワークショップに参加したときに、彼に尋ねたら、来ればいいよみたいなことを、バリ島のときと同じようにまた言われた。実際はアプリケーションを出して、エンロールされるかどうかが決まる。
 その頃はバイトの関係もどうにかなりそうで、がんばれば行ける気がした。すっかり、その気になった私は、行くことに決めた。その後は、渡米するために多くの方々に力を貸していただいて、どうにかアメリカへ行けることになった。けれども夏頃に盛り上がっていた気分は、煩雑なことが多く、年末にはすっかりトーンダウンし、渡米に向けて不安ばかりが募っていた。そのような気分をかかえたまま、2000年1月4日に私はアメリカへ旅立った。
アメリカのヨガ
 アメリカではここ数年ヨガが大ブームになっている。
 ロドニーのスタジオがある場所は、サンフランシスコの湾を挟んで対岸のイーストベイに位置するオークランドだ。UCバークレーがあるバークレーはオークランドの北側で、サンフランシスコを中心とするこの一体は、アメリカではベイエリア(BAY AREA)と呼ばれている。ベイエイアと言えば、アメリカ人ならすぐわかる。60年代のヒッピームーブメントの中心地であり、今でもそういう雰囲気を残すエリアである。オーガニックフードや健康、精神世界に関心のある住民も多く、身障者の住民も多い。アジア人の割合も高い。そんな地域である。当然、ヨガも流行っている。アメリカでも、先生が一番集中している地域の一つだと思う。
 オークランドは人口規模では新潟程度、けれどもヨガスタジオはあちこちにある(新潟にはもちろんヨガスタジオはない)。ヨガスタジオというのは、初級、中級、上級とか、あるいは種類の違うヨガクラスを毎日提供している場所である。アメリカの場合、月謝制はほとんどなく、そのときだけの料金を払うドロップイン、同じ先生に4回分払うと少しディスカウントになる払い方、もしくはシリーズで一括払うという場所が多い。だから、無理に先生を固定する必要は無い。大体、自分のメインの先生を決めていて、他の先生のクラスをたまにとったりしている人が多い。だから、もしあなたがアメリカに旅行に行くとすると、連絡なしでその時間に行けばドロップインでクラスに参加できるわけだ(中には予約のクラスがある場所もある)。
 他にも、フィットネススタジオにもヨガクラスはあるし、大学のラボでもクラスがあったりする。友人は子ども達にも教えていた。ヨガ以外のボディワークのワークショップに参加したときに、サンフランシスコからきていた人が、「どこに行ってもヨガ、ヨガで、なんだか辟易しちゃうわ。」みたいな感じで話していた。サンフランシスコは言わずもがなであろう。オーガニックフードのストアにも、ヨガグッズが売られている。
 
 日本では信じられないくらい、大ブレイク中なのだ。だから、先生の数も多く、生徒の数も多い。ヨガ関係の書籍やビデオは山のように出版されている。アマゾンコムでYOGAでサーチすれと、延々と本のリストが並ぶ。「ヨガジャーナル」というアメリカのヨガ雑誌には、首をかしげてしまうような広告も多く載っている。
 この流行がいいのか、悪いのは別にして、情報量は確かに多い。そして、私はアメリカのこのヨガスタイルは、今の日本でも受け入れられやすいという印象を持っている。なぜなら現代の日本人の日常生活は、ストレスが大きいという部分でアメリカ人のそれと似ている部分も多いからだ。
 アメリカ人のいいところは、真面目で真剣にやっていても、何だか少し「軽さ」があることだ。ユーモアみたいなものかもしれない。裏を返せば、マイナスにも成り得るポイントではあるけれども。アメリカ人といっても、もちろん個人差はある。ヨガを深くやっていこうとすると、この「軽さ」に物足りなくなる人もいるだろう。しかし、最初の入口としては決して悪くは無い。ヨガは現代人にとっては、その一部だけをとってみても、十分に効果があるツールなのだから。
ヨガにひたるものの・・・
 ロドニーのスタジオではAS2000というプログラムに参加した。参加者は最初35人、ベイエリア住民がほとんどであったものの、州外からこのために引っ越してきた生徒が6人、州内ではあるものの移動に2時間以上かかる生徒も数人いた。カリフォリニア州は広い。海外からの参加者は私のみで、ついでに英語に不自由があるのも私だけだった。
 クラスは火曜日と木曜日の午前中、それぞれ3時間、4時間のクラスと、その他に先生のレギュラークラスを週に1回は参加することが課せられていた。私はそこのスタジオで週に2回はレギュラークラスをとっていたので、少なくとも大体週に4回くらいはスタジオに通っていた。それ以外にも、不定期にゲストの先生によるワークショップがあった。
 AS2000ではアサナ(ポーズ)やプラーナヤマのクラスのほかに、動きの解剖学(筋肉や骨の名前や作用を理解する)のクラスや「ヨガスートラ」や「ヴァガバットギータ」などのヨガの基本とされている本を読むクラスなどがあった。本を読むクラスは、先生の英語がすごい早口であることも手伝い、クラス中は何を言っているかほとんど理解できなかった。宿題もあった。
 
 新潟にいた頃に較べれば、ヨガ浸りの夢のような生活のはずであるが、なぜかそれが日常になり、普通の生活になり、もちろんストレスもたまる。私の場合、英語の壁が予想以上に厚く、一番のストレスになった。容赦の無い英語が飛び交う中で、クラスの中では一番おとなしい生徒になっていた。一人一人と話すときはどうにかなっても、集団の中であちらこちらから矢継ぎ早に話されると、口を挟む余裕はなく、ついていくのもできない状況である。その頃は、「アメリカくんだりまでヨガを習いに来たんだから、吸収できることは全て吸収して帰んなくちゃ!」というように鼻息が荒かったものだから、なおさらストレス度がアップする。しかし、当時の私の英語レベルでそういうプログラムに参加することは、無謀に近いものがあったことは事実である。
 2000年の後半には体調も芳しくなくなった。アメリカに来る前はヨガの練習もやったりやらなかったり自分でのんびりやっていたのが、アメリカに来てからは精神面も含めてずいぶん「がんばって」いたために、どうやら少し疲れがたまってしまったらしい。からだにいいと言われているヨガだって、やりすぎはよくない。何だって、やりすぎはよくないのだ。私は日本が恋しくなった。温泉に入りたかった。おいしい魚が食べたかった。12月には日本に帰国することになっていた。

1994年 ヨガと出会う

運命のバリ島旅行
 1994年の初夏、バリ島へ出かけたことが、私がヨガと出会うきっかけとなった。
 8年間勤めた会社を辞め、退職金と時間があった私は、インドネシアに行くことにした。なぜ、インドネシアかというと、友人がバリ島へのツアーをちょうど企画しており、それじゃあバリ島行こう、8日間は短いからツアーの後も少し居残ろう、けれどもよその国に行くのもめんどうくさいのでインドネシアにずーっといよう、という結構安易な理由だった。というわけで、2ヶ月間インドネシアにいた。バリ島5週間、ジャワ島2週間、ロンボク島1週間の、日本人の平均にしてみれば長~い期間、ヨーロッパのバックパッカ-にしてみれば、まあ普通のスケジュールであった。
 そのツアーをオーガナイズしたのが、企画者の友人で、バリ島でツアーコーディネイトをしているアメリカ人とイギリス人のカップルだった。その女性(ジーンという名前)がヨガのインストラクターでもあり、ツアー中、朝の30分くらいヨガの時間があった。それが私にとって初めてのヨガ体験となった。その時間はおまけみたいなものだっけけれども、前から少しヨガに興味があった私にとっては、へえ~という感じだった。ちょっと気持ちよかった。けれども、その時はそれくらいを感じただけだった。
 ある時ジーンと話していたら、ヨガの話になり、日本にもいい先生がたくさんいるから、ヨガをしたらいいのにという話になった。そして、6月にアメリカからヨガのツアーを呼ぶの。その先生もとっても素晴らしい先生よというような話をした。
 ツアーは終わり、私はバリ島からジャワ島、ロンボク島へと一人で周り、またバリ島へ戻ってきた。滞在先はジーン達と一緒にツアーのコーディネイトをしているバリ人が経営している宿だった。宿と言っても、自宅の敷地にある4部屋を部屋として提供しているので、ホテルではない。そこで、残り少なくなった滞在を過ごしているときに、前にジーンが言っていたアメリカからのヨガツアーの一団がやってきた。ヨガツアーというものが存在するということ自体に驚いた。アメリカやヨーロッパではこういう企画はたくさんあるのだ。
 その日は、そのツアー参加者のバリ島の家庭料理のディナーを楽しみ、バリの子どもの踊りをみるイベントで、私が滞在している宿へわらわらとアメリカ人がやってきたのである。私も隅っこで子どもの踊りをみながら、誰がジーンが話していた先生かなあと探っていた。さわやかなお兄さんがいるなあと見ていたら、その人が先生だった。彼はチャイニーズアメリカンだった。
 そのツアーには日本から参加している人もいた。そうしたら、なんと、このバリ島の後で、その先生のワークショップが東京でもあるという。それも、私が帰国する次の日からだと言うではないか!(だったか次の次の日だったか、本当はよく覚えていない)なんというタイミング!そんなにいいんだったら、出てみたいなあと切に思った。そのときの私は、インドネシアに1ヶ月半くらい滞在し、1人旅で何となく度胸もつき、積極的な精神状態になっていたんだと今は思う。それで、彼に言ったら、ぜひおいでと言うし(とってもオープンな人なのだ)、もうすっかり参加する気分になり、一人で盛り上がっていた。
  
 そして、私は日本に帰国した。
初ワークショップに参加
 日本に帰国してから、東京のワークショップがあるスタジオに連絡し、参加できることになった。私はバリ島で1週間程、朝の30分ヨガをしたことがあっただけなので、全くと言ってよい初心者だった。ポーズの形もわからず、名前も知らず。足をどれくらい広げたらいいかもわからなかった。参加者のほとんどは、もう何年もヨガをしていたり、先生をしている人が多かった。そんな中で、右も左もわからなかったにもかかわらず、おもしろかったんだな、これが。そういう状況を楽しめたのは、インドネシアから帰ってきた直後であり、周りのことはあまり気にならない精神状態になっていたことも大きいかもしれない。それにしても、自分のからだと向き合うことが楽しかった。そのような経験は初めてで、「自分のからだを観察して」という指示は、あまりにも私には新鮮だった。思えば、会社を辞めた理由の一つが、このままだと自分のからだがもうだめになりそうだと感じたことにあったのだ。
 私はクラスについていけはしなかったものの、何だか面白くて、本当は2、3日で新潟へ帰る予定にしていたにもかかわらず、アドバンスのクラス以外、全てのクラスに参加してしまっていた。特にからだをしっかり動かした後のシャバーアサナ(死体のポーズ)の感触がたまらなく印象的だった。しかし、私のからだは、最終日にはビールのグラスを持つ手が震えるくらい筋肉痛になってしまっていた。
 もちろん、その先生(名前をRodney Yee:ロドニー・イーという)も教え方がうまく、魅力的だったのだ。彼はとってもオープンで、性格もよかった。私は、新潟でこれからどうやって練習したらいいかと尋ねたら、自分のビデオがあるから、ビデオを見て練習するといいよ、後から送るからと言ってくれた。けれどもそのビデオはなかなか送られてこなくて、スタジオの人がアメリカへ行ったときに、持ってきてくれた。彼は忘れることが得意であるというのは、後から知った。
 
 このときが私が(ちゃんと)ヨガに出会った時で、それから数年はロドニーファンとして私のミーハーな部分がヨガの練習を続けさせる大きな動機の一つになった。もう一つ、私は膝の靭帯を学生のときに痛め、手術を受けていたために、飛んだり跳ねたりする激しい運動は控えていたが、筋肉は鍛える必要があった。ヨガはそのためにもいいような気がしたのだ。
一人で練習する日々
 ロドニーのスタイルは日本ではあまり知られていない「アイアンガーヨガ」がベースになっている。その「アイアンガーヨガ」は、アメリカやヨーロッパではずいぶんメジャーなヨガの一つである。彼は、アイアンガ-スタイルをベースに自分なりのものをプラスして教えている。
 アメリカ人の先生は、彼に限らずそのようなパターンが多い。伝統にしばられず、自分がいいと思うものは取り込んでいくみたいな。日本人やヨーロッパ人は伝統の重さとか、そういうものが暮らしの中に自然に溶け込んでいて、否応無しに浸っているような気がするが、アメリカは伝統がない分、自由になれる。いいとか悪いとかの話でなく、歴史的なバックグランドが違うことにかなり起因しているように感じる。
 少し話がそれたけれども、私はそういうわけで主にアイアンガースタイルベースのヨガをやってきた。実際、新潟でヨガのクラスを少し覗いたりもしたけれど、少し物足りなく感じて、結局家で一人で練習していた。基本はワークショップで習ったことのリピートで、本を見て新しいポーズに挑戦するということはあまりしなかったので、最初の頃はレパートリー(?)は少なかった。東京のヨガスタジオでは、当時年に数回、外国人の先生のワークショップがあったので、そういうときは参加した。ロドニー以外の先生のクラスもよかった。ワークショップに参加する前と参加した後は、熱心に練習した。さぼるときも、もちろん多かった。なにぶん、家でやっているだけだから、いくらでもさぼれたのだ。
 1999年まではやったりやらなかったりの繰り返しだった。けれども止めることは無く、気がついたら今年の夏で8年になる。(注:2005年現在は12年になります。もうそんなに経ったんだ・・・)