ヴォーリズの校舎とフェルデンクライス

プライベートブログの方にもヴォーリズの建築について、ほんのちょっとだけ書いたことがある。(
実際の建築物は見たことはないけど、たまたま見ていたNHKの日曜美術館でヴォーリズを知り惹きつけられた。
今日久しぶりに内田樹さんのブログを拝見し、そこで見つけたヴォーリズに関する記事。
内田樹さんがお勤めの神戸女学院大学はヴォーリズの設計だ(建て増し部分があれば違うと思うけど)。
確か番組でもその大学の図書館が紹介されていて、こんな素敵な図書館を使えるなんて、ここの学生は本当に幸せだわと思った覚えがある。
その記事にはヴォーリズ建築の「仕掛け」の原理について書かれているのだけれど、フェルデンクライスと共通性が多いように思うのだ。内田さんが書かれているヴォーリズ建築の「仕掛け」は、フェルデンクライスのレッスンの仕組みに似ている部分があると思う。
(以下「内田樹 入試部長のひとり言」 <ヴォーリズ建築>より一部抜粋)


・・・・
もうおわかりいただけたと思うが、ヴォーリズ建築の「仕掛け」の原理は「扉を開けなければ、扉の向こうに何があるかはわからない」ということである。
私はこれを「学びの比喩」と呼んだのである。
教育を功利的な語法で語る人は、教育の価値はそれが子どもたちにどのような利益をもたらすかによって考量されると信じている。だから、換金性の高い知識や技術を目の前に差し出せば、子どもたちは争ってそれを学ぶし、学力が低い人間を社会の低位に格付けして、これを差別し、罰を与えれば、子どもたちは争って学ぶはずだと考える。「キャロット&スティック」教育観である。
けれども、教育の唯一の動機づけは経済合理性であるというこの貧しい人間観が採用されて以来、日本の子どもたちの学力は底なしに低下し続けている。それはこの人間観は学びのダイナミズムをとらえていないからである。
私たち自身が経験的に熟知しているように、私たちの学びへの意欲がもっとも亢進するのは、「これから学ぶことの意味や価値がよくわからない」のだが、「それにもかかわらずはげしくそれに惹きつけられる」状況においてである。
ヴォーリズの「仕掛け」は「その扉を自分の手で押してみないと、その先の風景はわからない」という原理に貫かれている。
だから、あちこちに意味の知れないへこみがあり、隠し階段があり、隠し扉がある。一階と二階では間取りが違う。一階ではこの場所に「これ」があったから二階にも同じものがあるだろうという類推はヴォーリズの建物では効かない。
扉の前に扉の向こうに何があるか、自分が進む廊下の先に何があるのか、それを学生たちは事前には開示されていない。自分の判断で、自分の手でドアノブを押し回したものだけに扉の向こうに踏み込む権利が生じる。どの扉の前に立つべきなのか。それについての一覧的な情報は開示されない。それは自分で選ばなければならない。
「学びの比喩」というのはそのような意味を指している。
・・・・・


記事全文はこちらから→
「これから学ぶことの意味や価値がよくわからない」と似たような感覚は、フェルデンクライスのレッスンで、特に初めの頃に往々にして起こる。「このレッスン、意味わかんなかった」みたいな感じかな。正直、この段階でレッスンに来なくなる人は圧倒的に多い。
だけどレッスンを通して、何かが自分のからだに起こり、数分前、1時間前と変化した部分があることはスキャンなどを通して多少なりとも感じることができる。そこでその不思議さを面白いと思った人が、惹きつけられてレッスンに来るようになるんですね、きっと。
もしくは、自分に何が起こったのかわからないんだけど、何らかの形でレッスンの影響を感じた人がフェルデンクライスに興味を持つ。
それから「その扉を自分の手で押してみないと、その先の風景はわからない」というのも、ホント、レッスンと同じだよなあと思うのだ。
神戸女学院大学、散歩したい・・・。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA