ヨガについて2002年に書いたこと(旧HPより)

私とヨガとの関わりについて、ちょっと書いてみました。
何かの参考になればうれしいです。
1.私に起こった変化
2.からだは変わる
3.ヨガのすすめ


1.私に起こった変化
 まずはヨガを始めてから、私に起こった変化をあげてみた。これらは、それぞれに関連している。
○からだの各部分に対して、意識ができる部分が増えた。
○からだの感受性がよくなった(指圧の先生談)。
○姿勢がよくなった。
○立ち方が変わった。
○歩き方が変わった(友人談)。そのためか、雨天時に泥跳ねがかなりなくなった。
○からだが柔軟になった。
○筋力がアップした。
○肩こりが軽減した(今でもあることはあるが、昔と較べると雲泥の差である)。
○からだに興味が増し、からだとこころの関係なども考えるようになった。
○英語が身近になった(これは、先生がアメリカ人であり、アメリカに行ったりするようになったためである)。
○アメリカ人の友人が増えた。
○ヨガをしないでいられないからだになった。
 例えば、姿勢がよくなったといっても、8年前と較べるとという意味であり、現在でも変化中である。姿勢にしても歩き方にしても、自分でもまだまだだと思っている。もちろん、からだもいつでも絶好調というわけでもない。調子のいいときも悪いときもある。私は学生の時に膝の靭帯を損傷し、大腿の筋膜を靭帯として移植する手術をしているので、今でも膝はときどき調子が悪かったりする。けれども、もしヨガをしていなかったら、もっと調子が悪くなっていた可能性も高いと思う。
 ヨガに少しでも興味のある人は、精神面はどうなの?と思われるかもしれない。私の場合、自分の精神面は、どうも自分ではよくわからない。もともとの気質として感情の起伏が少ないタイプの安定型なので、自分としては、それにさらに磨きがかかっているような気もしないわけではないが、定かではない。世間で言われるいい年になった今でも、かなり不安定な生活状態(実は笑い事ではない)で、安定した(?)精神状態を保てるのはヨガの効果か性格的なものかは何ともいいがたい。
 けれども、心に確実に影響すると感じることは、アサナ(ヨガのポーズ)をしていると落ち着いてくることだ。自分のからだと呼吸に意識をあわせるようにして1時間程度ヨガをしていると、そのうち自分がずいぶん落ち着いていることを感じる。クラスでは、先生の指示もあるために、少し感覚が異なるかもしれない。「落ち着く」という感覚は、精神面にも大きな影響を与えているはずだ。スポーツ系のものは、どうしても「競争」というファクターが入ってくるために、ランナーズハイのような状態や高揚感、達成感は得られても、この「落ち着く」という感覚は少ないように思える。本によれば、ヨガをすることによって副交感神経が優位に働くようになるらしい。またリラクセーションのポーズでは「ゆだねる」という感覚を味わうことできる。これも、日常生活ではあまりできないことである。
 ヨガを実践してきた結果として、上記のようにはなったものの、それらは私にとってはうれしい副産物である。私がヨガを続けてきた要因は、結果を求めてというよりも、自分のからだを通しての探索が面白いところにある。それと、今は何だかヨガをやらずにいられないのだ。それは15分の時もあるし、2時間のときもある。自分の一部になっているようなものだ。少しサボった後でも、また始める。けれども、止めるということはない。「はまっている」と一言でいうとそうなるのかもしれないし、もっと簡単に言えば「ヨガが好き」なのだ。
 ヨガの神秘性を期待している人には、私の変化はとても物足りなく感じるだろう。けれども、私もまだまだ初心者で、これから、どうなるかもわからない。ヨガは年齢に関係なくできるものなので、ゆっくりあせらず長くやっていきたいと思う。アメリカにいたときに、よく先生がTake your timeと言っていたことを思い出す。
 
2.からだは変わる
 ヨガを始めるきっかけになったバリ滞在から現在まで、時間を経るにつれて確信していることは「からだは変わる」ということである。よく、からだ関係の本とかにも書いてあるが、私も自分の実感として感じている。
 私がヨガを続けてきた理由の大きな一つとして、ヨガ日記にも書いたように最初の数年はミーハー的な部分が大きかった。そんな不純な動機づけにもかかわらず、1人で家でヨガをやることに飽きることはなかった。特に熱心にやった後にやるシャバーアサナ(死体のポーズ)が好きだった。自分の中の「気」と、周りの「気」が交感して動いているのがわかるときがある。そして、自分がどんどん重くなって空間に融けていくような感覚がする。それは気持ちがいいというのとは、少し違うような気もするが、その感覚欲しさにその前のアサナ(ポーズ)をしていた時期もあったように思う。
 最初の数年は、大腿の筋肉を鍛える意味もあり、スタンディングポーズを中心に同じようなことをしていた。ハワイのリトリートに最初に行った1996年の時点で、私は周りの参加者がヘッドスタンディングをしているのを驚嘆の眼で眺め、アルダチャンドラアサナというポーズでは全くバランスがとれなかった。一体どうしたらできるのか、アイデアもなかった。
 ところが、そういうことがそのうちできるようになっていくのだ。もちろん、練習はしている。それで、ある日、「あれっ」と感じるバランスがとれる瞬間が訪れる。その瞬間が少しずつ長くなってくる。できそうにないと思っていたポーズが少しずつできるようになっていく。
 1994年、バリに滞在していたとき、ツアー終了後、私は現地でみんなが履いているゴム草履を買い求め、毎日それを履いて歩いていた。ツアーが終わったあとは、特に予定があるわけでもなく、その日の気分でその辺を歩いたり、隣人とサイクリングしたり、気ままに過ごしていた。夜は照明が暗く、本も読めないので9時頃にはベッドに入り、朝は7時前に起き、練功18法という太極拳の体操をして、生のココナッツフレークがたっぷりかかっているフルーツと、もう一品の軽い朝食をとるという、あまりにも規則正しい生活を送っていた。ストレスもほとんどなかった。そのせいか、ツアー中は便秘がひどく、1人旅が始まった最初の1週間くらいは下痢という状態だったのが、その後は毎日ほぼ同じ時間に排便があり、私の腸は絶好調になった。こんなこと生まれて初めてで、「毎日自分のうんこがでる」なんて全くの驚きだった。
 さらに、私にとってインドネシア旅行で一番衝撃的な出来事となったことが起こった。ある朝、ふと自分の足を見ていると、足の指が開きはじめているではないか!何の問題も無く足の指が開く人にとっては、当たり前じゃんと思うだろう。けれども、私にとってはそれは信じられないことだった。
 というのは、会社に勤めていたときに、慢性的に肩こりがひどく、腰痛もあり、鍼灸に通っていた時期があった。そのときに先生が、足の指を開く練習をするといいわ、お風呂に入っているときとかがいいわよと言われ、私は自分の足の指というものに注目し、お風呂に入ったときに、指を開く練習していた。けれども、いくらがんばったところで全く動く気配はなかった。私は左膝の靭帯を手術しているし、きっと一生動くことはないと思った。完全に諦めたのだ。私は自分の足の指に全く期待を持てなかった。
 それが、バリ島で規則正しい生活をして、裸足みたいな状態(ゴム草履)で歩いていたら、からだが反応をはじめたのだ。この事件は、私の中にあった自分のからだへの認識を変えるのに十分な出来事だった。からだは正直だと本当に感じた。今でも、その認識は変わらないし、ヨガをやるようになって尚更そのことを痛感できるようになった。からだは変わるのである。
 それに加え、特にここ数年とても感じることは、同じポーズから受ける印象がどんどん変わってきているということだ。例えばウールデュワ ダヌラアサナというブリッジのポーズは、最初したときは体を持ち上げるだけでも大変で、その後長い間苦手なポーズだった。それが、昨年くらいから、ポーズのオープンな感覚が味わえるようになってきた。下半身の使い方が少し安定した上に、肩甲骨周りと胸椎の動きが出てきたことが関係していると思う。このように、自分のからだが前よりも少しずつ動くようになるにつれて、自分の感じられる範囲が広がり、また感受性が高まってくる。ポーズの味わいが変わると言い換えることもできる。このことは本当にわくわくする面白いことで、終わりはなく、飽きることもない。
 そして、からだが変わるということは、自分も変わるということだ。いつでも変化できるということを確信できることは、生きていく上でも、力を与えてくれる源になっていると思う。
3.ヨガのすすめ
 基本的に言えることは、ヨガをやるにつれて、どのポーズも楽に気持ちよくなってくる。ヨガのポーズは、からだに本来備わっている基本的な機能や動きをきちんと維持し、開発し、ゆがみ等がない人にとっては、すべて気持ちよいものであると思う。
 ところが、この現代社会で何十年も生きている私達は、それぞれがからだにゆがみやくせを持ち、ずいぶん固めて生きている。それは、自分をプロテクトしている側面もあり、ある程度しかたのないことだ。また自分の車ほどにもからだをお手入れしていない場合も多い。そんな私達にとっては、写真に見るヨガのポーズの中には、すぐできるようなしろものでもないものも多いのが現実だ。
 しかし、自分にできる範囲でやるだけでも、十分ヨガをしていることになる。そのときに、からだを信じ、その自分に満足しながら、からだと呼吸に意識を置いてやることが一番大切なことだ。すごく体が動く人でも、「私はこんなことができるのよ」みたいな意識でやっていたとすると、それはヨガではない。どこまで動くかでなく、どのような意識で動いているかが大切なのだ。だから、こころとも深く関わっている。ヨガアサナをすることは、こころの動きを観察する練習も兼ねている。
 そして、その時間はからだとこころが自分という器の中で一致している貴重な時間になる。こころは未来にも過去にもなく、今にフォーカスし、「自分がここにいる」状態になる。「スローライフ」という言葉が生まれてしまうほど、現代は忙しい人がほとんどだ。そうすると頭の中では常に段取りを考えることを余儀なくされ、脳はいつでもアイドリングモードかもしくはギアが入っている状態だ。こんな生活の中で、こころとからだが共にある時間は、その気で自分でつくらなければなかなか捻出できるものではない。座禅でも、気功でも、散歩でも、庭いじりでも何でも構わないと思うけれども、こういう忙しい現代だからこそ、自分のバランスをとるためにも、必要な時間だと思う。
 繰り返しになるが、からだは正直だ。だから、自分の中で一番いじりやすいパートでもある。こころの部分は、かなり頑固で自分自身に嘘をつくことなど厭わないので、自分で何とかしようと思ってもちょっと厄介だ。自分の心はいくらでもごまかしが効くが、からだはごまかすことはできないし、その反応は正直に現れる。信頼できるものなのだ。私は自分との接点として、からだからのアプローチが、私にとっては有効な気がしている。ヨガはそれを私に確信させてくれるものともなっている。
 ヨガ本来の目的は、自分を解き放ち、自由にするということである。からだは目的のためのツールの一つであり、できるだけ最終の状態に近づくためには、からだを調整する必要があり、アサナが考え出された。しかし、ヨガの一部分である「からだ」に関係している部分だけをとってみても、上記のように今の私達には十分効果のあるものになっている。ヨガアサナはとても総合的に編集されているプラクティスである。現在も研究が進んでいるストレッチング、筋トレ、骨トレ、エアロビクス、リラクセーション、呼吸法などの要素がすべて含まれている何千年間途絶えることなく伝わってきたインド文化の知恵である。それが、20世紀末の西洋で再び注目を浴び、ヨーロッパ、アメリカで大ブレイクしているのだ。アメリカの流行はすぐ日本に伝わるのが常なのに、どうしたことか、ヨガは現在の日本ではなかなか普及する気配が無い。オームの影響が大きいのだろうか?そうだとしたら、それはもったいないことだと思う。ヨガはストレス社会、運動不足の社会に生きる私達には、その人に合わせ実践することができる、うってつけの能動的なツールなのだ。

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