モーシェ・フェルデンクライスの著作より

モーシェの本で翻訳されている本は現在3冊しかありません。モーシェの本はちょっと難しいのですが、何だか面白そうなことが書かれています。
フェルデンクライスではがんばらない、無理をしない、努力を減らすということをよく言われます。努力を否定するものではありませんが、レッスンをする場合には努力が邪魔になります。それはなぜか。モーシェが説明しています。
「心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法」 モーシェ・フェルデンクライス著
安井 武訳  一光社刊  「まえがき」より一部抜粋
・・・・・・・選択の自由とはどういうことでしょう?オイストラフとメニューヒンとハイフェッツのうちだれが最高かという問題に戻りましょう。多くの人にとってこの選択は難しい、だって微妙な違いを聴きわけることができないのですから。もしオイストラフとわたしがヴァイオリンを弾き比べれば、だれだって「いや、あの人はあなたよりずっとうまい。あなたは弾いているんじゃない。全くひどいもんだ」と言うにきまってます。違いが大きければ選択するのは簡単です。しかし、人間存在として重要な意味のある人間的な選択をしようと恩ったら、感受性をもって微妙な違いを捉えられなくてはなりません。そのためには、自分の感受性を改善し、磨き上げねばなりません。であるならば、どうやって感受性を高めればいいのでしょう?
  ここに秘密があります。努力を減らさなければ感受性を高めることはできないのです。まず、馬鹿馬鹿しい例をあげてみましょう。太陽を見ているときには電灯が点いているかどうかはわかりません。あるいは、太陽を見ているときに、わたしが後ろで松明をかかげているのがわかりますか?刺激が大きいときには、感受性はひじょうに小さくなります。刺激が大きいと、太陽が破裂し、爆発するのを見たくなる、そうなれば光の増えるのがわかるでしょう。あるいは、昼間、通りを歩いているとき、たとえ街灯がついていても気がつきません。だから、刺激が大きいと何もしていなくても、ひじょうに大きな違いしかわからないのです。したがって選択は自由ではない、つまり人間的な選択ではないということになります。
  別の例をあげましょうか。エンジンを回している飛行機のそばに立ってごらんなさい。だれかがゴングを鳴らしたとしても、ゴングのすぐ近くにいなければ聞こえません。だれかに話しかけようとしても、近寄って耳もとで怒鳴らなければなりません。わたしがピアノを担いでいるとき、鳥がなにかをその上に落っことしたとしてもわたしは気がつかないし、違いを感じないでしょう。だれかがそいつを取り除いてくれても、やっぱり気がつかないままでしよう。払っている努力に比べて重さの増え方が問題にならないからです。なにを落っことせば違いを感じられるでしょうか?たぶん、象かな。(笑い)・・・・・・

抜粋なのでわかりにくいですが、続きが読みたかったり、ちゃんと読みたい人は買ったり借りたりしてくださいね。

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